生きる意味とは何だ。

生物学的立場

まず生物学的な見地からいえば、

生きる意味は二つしかない。

 

  1. 子孫を残すこと(子孫繁栄)
  2. 長生きすること

 

つまり

「自分の遺伝子をより広く遺すこと」か、あるいは「自らの生を長くする」に価値がある。

1を偏重するなら恋愛学へたどり着くし、

2を大事にするなら、医療・健康志向になる。

 

1を拡大解釈した結果が、今の恋愛偏重主義であるように思う。

 

ニヒリズム的立場

これらを覆す反論が、

「すべての人はみな死ぬ。もしかしたら明日地球に隕石が衝突し、人類が滅亡するかもしれない。何を創ろうとも意味はない。」

という虚無主義(ニヒリズム)の立場だ。

 

この論を分かりやすく3段階に示すと下記のようになる。

  1. 人生は永遠に続かない
  2. 人生が永遠に続かないなら、人生に意味はない
  3. よって人生には意味がない

 

虚無的立場を否定する、つまり結論の「3.よって人生には意味がない」

を否定するには、前提の1か2を否定しなければならない。

 

まず前提「1.人生は永遠に続かない」。

これは、通常の思考ならば否定できない。

みな年老いて死んでいく姿を経験的に私たちは学んでいる。

 

これを否定する(人生は永遠に続くとする)には、

肉体的な死後も魂は永遠に存在する、のような立場にたつことになる。

 

分かりやすい例でいえば、キリスト教がある。

カトリックやプロテスタントによって、死後の行先の決定条件には相違があるものの、

死後、魂は存在するという教義をもっている。

 

 

ただ、日本人一般の無宗教観では、この思考は受け入れ辛い。

 

また死後の世界については、議論の土台となりうる根拠が少なく、正しく議論できない。

一旦この前提は考慮しない。

 

次に前提「2.人生が永遠に続かないなら、人生に意味はない」

人生に意味はない。

 

「人生に意味はない」と人がいう時、「生きて死ぬ⇒プラスマイナス0だよね」みたいな思考があるように感じる。

 

 

ただ人生が永遠に続いたところでどうだろうか。

何かに挑戦する、何かを学ぶ、だれかと出会う。

それは一度きりではなく何度も何度も何度もできることとなる。

そうなると、「熱意」や「情熱」みたいなものが無くなるだろう。

 

また、どんな目標も中間目標でしかなくなる。

 

何か面白味がなくなりそう、永遠の人生もちょっと味気なく感じられる。

 

ならば人生の意味とは、

時間が限られていようと、限られていなかろうと、

目の前の「良いこと」「幸福なこと」を感じていくことではないのだろうか。

 

ここで、前提「2.人生が永遠に続かないなら、人生に意味はない」を、否定して、

結論「3.よって、人生に意味はない」を否定する。

 

 

( 結論「3.よって、人生に意味はない」を肯定して

意味は無いなりに、よく(最善を尽くして)生きるべきだという立場も存在する)

 

 

どちらにせよ、物事は次のステージ(何をするのが最善の生き方なのか)に進む。

どう生きるべきか

よくいわれるのは『よく生きる』『幸せに生きる』ということだ。

 

 

ただ、何をしていれば幸せなのだろうか。

家族と暮らす、美味しいものを食べる、着たい服を着る。

 

生きていく中で様々な欲望が生じる。

 

こういった様々な欲望が満たされている状況が幸せなのだろうか。

 

そもそも欲望とは、本当に満たすべきものなのだろうか。

欲望が無ければ、満たす必要もなく、そのまま幸せに繋がるのだろうか。

 

 

ここで十七世紀の思想家パスカルの言葉を引用したい。

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

 

ここでは『不幸』という観点から論じている。

人間は、じっとしていられない=退屈が耐え難いために、むやみに動き出し、外界へ進出し、ストレスをため、そして不幸となると、彼は語る。

 

退屈であること自体が不幸でもあると、筆者は考える。

 

 

では、幸せに生きるためには、この『退屈』をうまく消化することが不可欠だ。

 

 

『退屈』をうまく消化するには、月並みな言葉だが、『好きなことに打ち込む』ことが一番だと考える。

 

ただ、その『好きなこと』は、自分の根源から発せられた好きなことかどうか注視する必要がある。

 

例えば、「きらびやかな服を着る」という好きなことがあったとする。

ただ、「きらびやかな服を着る」という行為自体が好きなことではなくて、

「きらびやかな服を着る」という行為によって、「周りから羨望の目を得られる」ということが好きなことであった場合、それは本当にその着るという行為が好きなことではないといえる。

 

ただ、「自分の根源から発せられているかどうか」という基準も曖昧だと思う。

他者の視点によって形作られたものならば、その他者がいなくなれば無くなってしまう。

 

 

ここでいう「自分の根源から発せられているかどうか」は他者の視点無しに、

それを孤独にやりつづけたとしても、飽きもせず喜びを感じられるものかもしれない。

 

 

この時代は『好きなこと』を見つけにくい。

いくつもの仕事、いくつもの趣味、いくつもの楽しみ、いくつもの余暇の過ごし方が、TVやインターネット、雑誌などのメディアや、身近な家族や友人を通して提示されている。

 

なにが良いのかすべてを試してみる時間もないし、

「これかな」と自分の中で思ったとしても、よりよい選択肢が世間の中に残っているかもしれないという不安が常につきまとい、目の前のことに熱中できない。

 

どうすればいいんだ。

 

 

 

 

まあ、すべては主観的、考え方次第だ。

 

自分が良いようにすべて解釈すればいいと思う。

これから考える度追記していきます。

 

■参考文系


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